vol.1 “歴史の違い”の具体例


自身の引退試合でスローインをする元スペイン代表のロレンテ。

 6月30日に元スペイン代表のフィクソ、ロレンテの引退試合が彼の故郷であるトレドで行われた。ロレンテは長身のフィクソでその戦術眼とスキル、そしてリーダーシップでインテル、カステジョン、ルーゴ、スペイン代表などでプレーし、数々のタイトルを獲得。また初めてイタリアでも成功をおさめたスペイン人選手だ。

 2000年の世界選手権直前にロサノ監督にメンバーから外されたが、アジア選手権で日本代表のフィジカルコーチを務めたチチョやディナモ・モスクワを率いるティノ・ペレス監督は彼のことを「最高の選手」と讃える。今季途中で2部のカステジョンに加わり、2部B(地域リーグ)の降格のピンチに瀕する古巣を助けようと現役復帰。ただ彼の復帰も虚しく、カステジョンは降格をしてしまった。ロレンテは現在40歳、カステジョンが彼のキャリアにとって最後の所属チームとなった。

 ロレンテの引退試合は3チームが参加し、変則マッチで行われた。主役はインテルのOBチーム、かつて1部にいたトレドのOBチーム、そして選手会のOBチームでそれぞれプレー。

 引退試合は選手もOBならば、審判もOBだった。ワールドカップや欧州選手権で審判を統括し、かつて全日本選手権で招待審判として笛を吹いたことがあるペドロ・ガランが笛を吹く。試合はさながら、同窓会といった雰囲気だ。

 そんなゲームをさらに懐かしいものにしたのが、ルールだった。キックイン、コーナーは全てスローイン。ゴレイロはゴールエリアから飛び出すことができないし、ゴールスローはハーフウェイラインを越えてはいけない。試合はかつてのスペインリーグのルールで行われた。

 スペインは2004-2005シーズンまで独自のルールでリーグを行なっていた(それでも2004年のFIFAのルールで行われた世界選手権ではスペイン代表は優勝している)。キックインはスローインで、コーナーも手で投げた。2005-2006シーズンからFIFAと同じルールでリーグ戦は行なわれているが、スペイン人はみな口を揃えて、かつてのルールがおもしろいと言う。僕もそう思っていたが、ロレンテの引退試合を見て、改めてその思いを強くした。

 手で投げるので足よりもコントロールは正確だ。ゆえにスペクタクルで選択肢も多く、必然的に駆け引きも多く生まれる。その多種多様な攻撃とちょっとでも気を抜くとゴールが決まってしまう緊張感。観衆にとっても、そして選手にとっても愛すべきルールだった。

 ゴレイロがゴールエリアから飛び出せないという縛りもフットサルをより面白くする。ゴール前に鎮座するゴレイロ。彼らを騙さなければいけないから、必ずゴール前ではボールホルダー以外にもうひとりの選手の攻撃参加が必要不可欠だ。もちろん個人技でゴレイロを抜き去るという選択肢もあるが、1対1だとその選択肢だけに絞ることができるので守りやすい。2人いれば、選択肢は増えるので“ドリブル”や“シュート”だけに絞ることはできない。またディフェンスの後方のスペースをゴレイロがごーゴールエリアを飛び出して、カバーリングすることはできないので、相手ディフェンスのラインも必然的にバランスを重視し、ちょっと深くなる。また相手ディフェンスの前線へスローを放り込むことができないから、パスワークが必要となる。つまり現行のルールよりも、かつてのルールは攻撃を展開する上でコレクティブなプレーが求められるのだ。

 もうひとつ付け加えなければならないのは、ボールだ。20年前、フットサルボールはまるで砂袋のように重かった。だから現在のようにミドルシュートが容易に決まらない。点を奪う上でより多くの手間と人数をかけることを強制されていたのだ。特にセットプレーはスローアーが多くの選択肢から確実に決まるものを選択する戦術眼が求められた。スペインのセットプレーは武器だが、制球眼、そしてゴール前での予備動作ははかつてのルールによってスペイン人に培われたのかもしれない。コレクティブなプレーにしてもそうだ。

 ブラジルやスペインの先進国と後発である日本を比較した時「歴史が違う」という常套句をよく聞く。その「歴史の違い」の具体例をロレンテの引退試合で見た気がした。

 グローバル化する現代に逆行するようだが、日本も独自のルールの中でリーグ戦を行えば、日本の独自のフットサルのスタイルが生まれるかもしれない。たとえばロシアだ。ロシアは現在リーグ戦を25分ハーフで行なっている。欧州選手権、彼らの足が後半になっても止まらないという武器はそのルールから製造されたものに違いない。


プロフィール
座間健司(ざまけんじ)
1980年7月25日生まれ、東京都出身。2002年、東海大学文学部在学中からバイトとして"フットサルマガジンピヴォ!"の編集を務め、卒業後、そのまま"フットサルマガジンピヴォ!"編集部に入社。2004年夏に渡西し、スペインを中心に世界のフットサルを追っている。"2011年フットサルマガジンピヴォ!"休刊。2012年よりフットサルを中心にフリーライター&フォトグラファーとして活動を始める。

 

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