第33回「サロンフットボール」

「サロンフットボール」…フットサルの前身競技の一つ。南米発祥のスモールコートで行われる室内サッカーで、盛んに行われていた。日本には北海道から入ってきて、その後各地に広まっていった歴史がある。

北海道を入口に輸入された
フットサルの前身競技

「昨日ヤホーで調べたんですけどね…」で始まる、某お笑いコンビの漫才ではないが、みなさん、「サロンフットボール」って知ってますか?

今回それこそインターネットでいろいろと検索してみたのだが、「サロンフットボールは南米で盛んに行われていた、フットサルの前身競技で、ウルグアイで1930年代に創設された……」みたいなくだりが、多くのサイト、ブログに書かれていてビックリした。

南米でフットサルといえば、世界一のフットサル大国であるブラジルだ。ならその前身だってブラジルのものだろうって、普通なら考えると思う。でもウルグアイが発祥なんて、そんなマニアックなことがきちんと書かれている。これはおそらく、このサロンフットボールを日本に輸入してきた、札幌大学の柴田勗教授が、各種文献でサロンフットボールの詳細を書き残しているからだろう。

サッカー部の指導をしていた柴田先生は、雪の降る冬場に室内でいいトレーニングができないかと考えていたところで、札幌のYMCAで行われていた室内サッカーを目にし、ブラジルに実態調査に出向いた。1970年代の話だ。

数回に渡る調査の中で、きちんとしたルールが制定された中で行われたのは1930年代のウルグアイが最初だったことを突き止め、逆にハンドボールサイズの弾まないボールを開発したのはブラジルほうだったのを知った。最終的に札幌にこの南米の「フッチボール・デ・サロン」を取り入れ、日本に広めることにした。

ちなみに「サロンフットボール」という言葉は、柴田先生が「フッチボール・デ・サロン」を日本風に言いやすいようにと考案した、訳語的なものだ。さらに先生は、モルテン社にかけあって、サロンフットボールのボールを日本で作ってもらうようにもしたという。北海道が「日本フットサル発祥の地」といわれるのは、この前身競技であるサロンフットボールを取り入れ、行ってきた歴史があるからなのだ。

フットサル黎明期の選手たちでは、このサロンフットボールの経験者が多い。僕も大学生だった90年代の前半に、関東近郊で行われていた大会に何度か出たことがある。今の府中アスレティックFCの前監督だった中村恭平氏は大会の常連で、兄弟を中心に「スーパー踊るファミリーズ」というコミカルなチーム名で出場。いつも大活躍だった。

また対戦した相手に、右利きなのに、左真横から来たボールを左足トーキックでゴール上隅に正確にシュートを決め、度肝を抜かれた人がいた。それが眞境名オスカー。全日本フットサル選手権で、ファイルフォックスを何度も優勝させ、名古屋オーシャンズの監督も務めた彼は、ブラジルではサロンフットボールのプロ選手として活躍していた人物である。

エスポラーダ北海道の小野寺隆彦監督などは、サロンフットボールの日本代表だった選手だ。世界大会にも出場した経験がある。

サロンフットボールの影響を受ける
フットサルの技術、戦術

さてこのサロンフットボール。今のフットサルから見るとかなり独特なルールにしばられていた感がある。だが、そこから起こるさまざまなプレーのエッセンスが、今のフットサルにも色濃く反映されている部分があって面白い。

何といってもハンドボールサイズの小さいボールだ。革が厚くてほとんど弾まず、重量も結構あるので打感はかなり重い。この小さくて弾まないボールを扱うには、やはり「足裏」が自然で最適だったのだ。そして、「トーキック」。この重くて小さいボールで強いシュートを打つには、インステップキックよりトーキックのほうが向いていたのである。

フットサルの代表的なテクニックである、「足裏」「トーキック」は、サロンフットボールからの流れで来ているものといえるだろう。もっとも、「トーキック」に関しては、フットサルになってボールが大きくなり、インステップキックが蹴りやすくなったことから、以前ほど頻繁には見られないプレーになっているのだが。

もう一つ興味深いのは、相手のペナルティーエリア内(サロンフットボールではゴールエリアと呼んでいた)で打つシュートが認められていなかったことだ。当時のペナルティーエリアの広さは、今のフットサルの6メートルと違って4メートルだったが、この中でシュートを打ってゴールしても得点とは認められず、相手のゴールキックになっていた。

このルールで何が起こるかというと、「ピボ当て」である。攻撃側がペナルティーエリア内でシュートを打てないのだから、守る側はエリアの前で構えていればいいわけだ。そこで攻撃側は、ピボがわざとエリア内や、相手陣のサイドの深い位置に入ったりして、後方からクサビのパスを受ける。そしてマイナス方向に戻したリターンを、走り込んだ味方がエリア外からシュートを打つのである。

またスローイン、コーナースローが採用されていたから、走り込んでいってエリアギリギリのところで投げられたボールをヘディングで狙う、スカイプレー的な戦術もあった。

ただ、僕がこの競技に触れていた90年代前半は、ちょうどフットサル誕生に向けていろいろな動きがあった時期で、ルールも大会ごとに変化していった記憶がある。ペナルティーエリア内のシュートも認められるようになり、そこから「ファー詰め」のシュートや、スローインや、コーナースローからボレーシュートを決めにいくサインプレーも頻繁になった。

GKに関してはかなりプレーが制限されていた。強烈なところでいえば、ペナルティーエリア外でのプレーが禁止されていたこと。エリアから一歩も出てはいけなかったのだ(後にプレーしてはいけないが、エリアの外に出ていてもよくなった)。スローはノーバウンドでハーフフェイラインを越えてはいけなかったし、パントキック、ドロップキックのハーフ越えも禁止。

バックパスは当初はフリーで認められていたのだが、あるときの世界大会でブラジル相手に先制したパラグアイが、バックパスを使いまくって時間稼ぎした「アンチサロンフットボール」をやってのけて、ルール改正となり、バックパスは1回までとなったのだという。最終的にはこの前のルール改正までのフットサルと同じように、GKから出されたボールがハーフラインを越えるか、相手に触れなければバックパスは禁止の方向になった。

この他にフットサルとの違いで特徴的なのは、交代について。交代は一度ピッチを出た人が再び入ってもいいのだが、その回数が7回までと制限されていた。交代するときは、サッカーと同じ感じで、ハーフウェイラインを中心に設けられたエリアで、アウトオブプレーのときに審判に申告して入れ替わっていた。

ゆったりした中での
技と戦術の応酬

こうしたルールの中で行われていたサロンフットボールは、カウンターアタックがなかなかやりにくかったような記憶がある。攻守の切り替えの速さ、スピーディーな展開を志向する今のフットサルと比べると、サロンフットボールは、ハーフウェイラインから手前に構えて相手の攻撃を受け止めて防げたら、自分たちもボールを回して攻めていく。お互いにゆったりした感じがあったと思う。

初期のフットサルまで採用されていたように、接触系のチャージやスライディングが禁止されていたから、守備側としては前からプレスをかけて、積極的にボールを奪いにはいきづらい設定だったかもしれない。だから攻撃側は、ある程度余裕を持ってプレーすることができた。トリッキーなボール扱いだったり、目にも鮮やかな高度なコンビプレーも、やりやすかった。

フットサル時代が始まってから初期の頃には、まだそうした名残があった。その「技と戦術の応酬」に魅せられて、フットサルを好きになった人も多かったのではないかと思う。現在のスピーディーなカウンター系のフットサルを「つまらない」という人が結構いるのも、こうしたところが理由なのではないか。

今のフットサルは、どんどんサッカーに近づいている流れにある。「ジュニア年代のフットサルが将来のサッカーにつながる」という売り文句。「JリーガーをFリーグに」という煽り。フットサルの認知度を上げ、競技フットサルの世界をしっかりしたものにするには、避けられない流れなのだろう。

でも、フットサルならではのよさもまたアピールしていかないと、存在する意味がないし、面白くない。そのフットサルのよさは、かつてのサロンフットボールが持っていた部分が結構あったのかなと、改めて思ったところだ。

自宅にあった懐かしのサロンフットボールのボールを、足元でいじりながら、今回の原稿を書かせていただきました。みなさんも、今宵は「ヤホー」で検索しながら、古(いにしえ)のフットサルに思いをはせてみるのはいかがでしょう?



サロンフットボールのボール。僕の家にまだ1つ残ってました!

 

プロフィール
菊地芳樹(きくち・よしき)
1971年7月22日生まれ、神奈川県出身。明治大学卒業後、学研に入社。サッカー雑誌、ゴルフ雑誌の編集記者を経てフリーに。現在は、サッカー雑誌「ストライカーDX」の編集スタッフとして働きつつ、他雑誌にもフットサルを中心に原稿を書いている。フットサルは90年代半ばより興味を持って取材し始め、これまで各媒体に原稿を書き、実用書も多く手がけてきた。フットサルの永続的な普及・発展に貢献したく、初心者からリピーター・マニアへの橋渡し役としての立ち位置を意識しています。
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